左側の計画
二人並んで歩くときは、承太郎が左、花京院が右と決まっていて、それは旅が終わってからの習慣なのか、それともその前なのか、さぁ何時から決まったのか定かではないが、気付けば必ず承太郎は花京院を利き手の側に置いて、半歩、遅れて歩く彼の気配を感じている。 今も、学校へ向う人気の無い道を、承太郎は車道側に、花京院は歩道側に歩いていて、揃って吐けば白く浮き上がる息を上げながら、ぽつぽつと会話を重ねている。 利き手側は、人が警戒を怠らない側面で、見知らぬ人が声をかけたとき、利き手側から人が近付くと、声を掛けられた方は無意識に警戒をしてしまい、無視を決め込むか、探るように声をかけてきた相手を見つめ返す傾向があるのだという。 承太郎も例に洩れず、旅の途中で利き手側から近付いてきた現地の人の、人懐こい声にも、その鋭い眼で睨めつけて、思わず竦む相手を一瞬の睥睨の後に遠ざけていたし、時には警戒を通り越して、馴れ馴れしく彼の腕を引いてきた何某に、煩わしいと掃った腕がそのまま相手の顔を掠めて、危うく怪我をさせる事態に陥ったこともある。 尤もあの時は、何時何処に敵が潜んでいても不思議ではない状況だったし、妙に馴れ馴れしく声を掛けてくるのが、見目麗しい女性どころか、身元のおぼつかない男だとすれば、観光客を相手にあくどい商売をしているか、物獲りか、はたまた承太郎に色目を使う、特定の趣味の方か、と想像するのは難くなく、男はおろか女性にだって剣呑な態度を改めたりしない承太郎が取った行動が、特別であるとは言い難かったのであるが。 そうして、旅が終わってからというもの、習慣というものはそう簡単には抜け切らず、なんとか無事に帰国を果たして、二人そろって学校に通うというささやかな…けれど旅の合間にはそれこそ念願の…夢を叶えた後でも、承太郎の右側から近寄る相手を、流石に有無を言わさず殴りつけることはしないまでも、苛立たしい視線を隠そうとしないのは変わらない。 ただ彼の場合、左側であっても近付く者をまるで汚いものでも見るかのような険悪な視線で見下ろすのには変わらないのだが、それでも、右手に比べれば比較的穏やかで、それを本能でかぎつけるのか、承太郎の『自称』取り巻きたる女生徒達は、皆こぞって彼の左手に腕を絡めたがるのだ。 そんな中で唯一、左側からはおろか右から話しかけても、不躾に腕を絡めても…そんな機会はほぼ皆無に等しいとしても…邪険に扱われることも、嫌悪の視線を向けられることもない相手がいて、何時も彼の右側に位置しては、彼を見上げて穏やかに笑う、その姿に、承太郎は微塵も警戒するどころか、むしろ彼にしては酷く無防備に、その存在を右に置くことを許していた。 彼は今、けれど、酷く右側を意識しているのには変りはなかった。 彼の右斜め下45度の延長上にある、ふわふわと歩く度に揺れる長い髪が、右に居る相手の顔を隠して、ときおりチラチラと通った鼻梁や、薄い唇から吐き出す白い息、そこから紡ぐ柔らかな声、僅かに吹きつける風の具合によっては、頬骨の辺りや、うまくすれば伏せがちの長い睫を覘かせていたからだ。 顔など、飽きるほど見慣れているし、今更視線だけを右へやって、盗み見るほど珍しいものでもない。 そもそも顔が見たいなら、気付かれないように目深に被った学帽の下の緑の眼を爛々と輝かせて、狙い済ませたように相手を見据えることなどせずとも、一言、声を掛ければ良いのだ。 途端に相手は微笑みながら彼を見つめ返して、今は長い前髪に隠れた顔の半分どころか、冷たい風にさらされたもう片方の顔も、余すところなく見つめることができるだろう。 しかしそうしなかったのは、彼にある計画があったからだ。 隣を歩く花京院は、俯きがちに、ぽつぽつと会話を重ねながら、承太郎の右隣を歩いている。 右手にもった学生鞄は、承太郎の左にもつ鞄とは違い、きちんと授業の為のノートも入っているし、喧嘩の度に放り投げてぼろぼろになった承太郎のそれとは違い、大事に扱われているのだろう、よく使い込まれた革地は、鈍い艶がかかっている。 そして、彼の左手は。 寒がりだと公言しているにも関わらず、手袋をはめていることもなければ、行儀悪くコートにつっこまれることもなく、外気にさらされているのである。 細い指先は冷気の為に赤く、長い爪の部分は薄紅色にそまっている。 歩くたびに前後に揺れて、それが時折、承太郎の指先に当たるのだ。 言葉を紡ぎ終わる度に俯く彼は、ぐるぐるに巻いたマフラーに顔を埋めて、薄い唇を隠してしまう。 けれど承太郎に話しかける度に、律儀に顔を上げるので、渇き気味の唇が承太郎に向っては、ずっと右側を意識し通しの承太郎の、何気ない風を装いながらも獲物を狙う鋭い視線を向ける彼の視界にちらちらと飛び込んでくるのだ。 指先同士が触れる度に、花京院は小さく謝って、承太郎は気にしていないのだと僅かに頷くことで返している。 けれどもし、偶然に触れた花京院の指先を、承太郎の手が握り返したら。 細く冷たいその手を、承太郎の骨ばった熱い手が包んだら。 彼は驚きに顔を上げて、承太郎を見上げてくるだろう。 今は前髪に隠れた顔を、真直ぐに承太郎に向けて、驚きに勢いづいた所為で、隠れた半分側も、髪が滑って露になるかもしれない。 言葉を紡ごうとした唇が、戸惑って薄く開き、会話を重ねるときにしか見えない、彼の歯列の奥を垣間見せてくれるかもしれない。 冬の冷気にかさついた唇とは対照的な、艶々と水分で滑る舌が、承太郎の名前を紡ごうと、そっと動くのかもしれない。 その唇に、自分の唇を重ねることが出来たなら。 今まで何度も、そうしようとして出来なかった、例えば旅の途中で同室になった夜、眠る彼にそっと近付いて、穏やかな寝息を立てる彼の唇に、指先だけ触れて諦めたその先を、続けることができるかもしれない。 彼はきっと驚くだろうし、もしかしたら、怒り出すかもしれないが、幸い、承太郎は旅の終盤に『時を止める』という能力を身につけることができたから、上手くいけば彼が気配を察して拒む前に近付いて、驚きのまま動けずに居る彼に、滑らかな口内を堪能するのは無理でも、唇を重ねることはできるかもしれない。 自然汗ばんでくる掌を、旅の終わりと共にやめた煙草を指に挟む癖を装って軽く動かして、冷気に汗をちらす。 隣で俯く花京院は、僅かな緊張を見せる承太郎の気配にも気付かず、穏やかにぽつりぽつりと言葉を掛けている。 手を握って、少しだけ引き寄せて。 驚いて見上げてくる顔に、左手を伸ばして顎に添えて。 時を止めるのは、その後でいい。1、2秒もあれば彼の唇に触れることは容易い。上手くすれば、開かれた唇に、自分の舌をそっと伸ばすことだって出来るだろう。 幸い周りに人は居ない。彼が驚いて周りを見渡して、頬を染めて瞳を潤ませた顔を承太郎ではなく辺りに泳がせて、貴重な表情を見逃すことはないだろう。 ことは素早く進めなければならない。手を握った瞬間に、左手を伸ばすタイミングを逃せば、戦闘成れしてしまった所為で、相手の出方に敏感な彼に気配を察知され、逃げられる可能性があるのだ。 彼が次の行動を起こす前に、顎をしっかりと固定して、顔を近づけなければならない。 承太郎は何度も頭の中でシュミレーションしながら、花京院の指先が、彼の手に触れる瞬間を今か今かと待ち続けた。 近付いては離れていく白い手が、承太郎の指先のぎりぎりまで近付いては、ひくりと動く承太郎の指先の動きを察知したのかしないのか、逃げていく。 話などろくに聞いていないが、元々承太郎の返答など、相槌くらいしかないから、そう怪しまれることもない。適当に頷いていれば、彼は話を聞いていると思い込んで、警戒することもないだろう。 なにせ承太郎は、彼の利き手とは反対の、左側に居るのだから。 何時もよりも若干、早くなった鼓動が、身体の中心から厚い胸板を通り抜けて、薄い肌のすぐ下まで浮き上がってくる。 緊張した指先が、冷たい風に曝されて、その度にぴりぴりと痛み、近付く花京院の指先から生じる冷気を察知して感覚が鋭くなっていく。 乾いた喉は、歯の奥に潜む舌を何度も蠢かせて、出ない唾液を飲み込もうと、必死に上下する。 そして遂に、待ち望んでいた瞬間がやってきたのだ。 花京院の爪先が、承太郎の小指を掠めた。 承太郎は反射的に弾かれたように逃げようとする爪を追いかけて、引っ掴む。 その手早さといったら、彼の持つスタンドの精密かつ迅速な動きにも匹敵するほどであった。 ぎゅ、と音がする程に握った指先が、三つ重なり承太郎の指に爪を食い込ませて、きんと冷たい感触が承太郎に伝わる。 握った指は思った以上に細く、乾いた肌は意外にも繊細な感触で、承太郎は初めての手触りに、そっと奥歯を噛み締めた。 指先を握られた花京院が、驚きに顔を上げる。 勢いをつけて振り返った所為で、肩でたわんだ前髪が滑り落ちて、彼の顔を露にする。 細い眉を上げて、切れ長の瞳は潤んで、白い頬は冷気のためか、それとも他の理由か、僅かに赤くそまっている。 目尻の赤よりも鮮やかな唇は、承太郎が期待したよりも薄く開かれていて、それでも覗き込めば、たっぷりと濡れた舌が、その奥で言葉を紡ごうと蠢いていた。 彼が次の行動を起こす前に。 承太郎は鞄を握っていた左手を上げて、花京院の顔へ近づける。 細面の、尖った顎に指先をかけようと、素早く左の指を、彼の口元へやって顔を上げさせようとした瞬間。 予想もしなかった、破裂音に、承太郎は動きを止めた。 一瞬何が起こったのかわからず、瞬きを繰り返して、乾いた革の音のする方へ視線をやる。 ぴりぴりと痛む左の指先は、花京院の白い顔に触れること叶わず。 鞄を握ったまま、花京院の顔のすぐ手前で止まっている。 その後ろでぼやけた輪郭を作る、花京院へと焦点をあわせれば、彼は自ら首を傾けて、薄く開いた唇もそのままに、承太郎を見つめ返していた。 ひどく、その首を左に傾けて、今にも肩に顔がくっつきそうだ。 潤んだ瞳はそのままに、言葉を紡ごうとして出来ない、開いたままの唇は赤く、その奥で承太郎を誘う舌は、動きをとめてひっそりと仕舞われている。 ただ彼の眉間は酷く皺がよって、何時もなら彼の眉は尾を下に、困ったように歪むのに、今は平行に、むしろやや眉尻が上がって、愁眉を歪に歪めている。 それはむしろ、怒っているというより、困惑しているようにも見え、彼が戸惑いつつも、承太郎の双眸をしっかと見つめ返すのに、承太郎はもう一度、焦点を花京院の顔から、遂に肌に触れることの叶わなかった己が指先へと戻し。 戻して、その指先が、花京院の顎を掴むために開かれておらず、しっかりと拳を突き出したままであるのに気付いた。 同時に左手に残ったままの重みをも。 はてこれは何ゆえ重みを感じるのかと、いぶかしみつつ承太郎がまじまじと掌を見詰めると、握ったままの拳から、にゅう、と金属の金具が伸びていて、それは使い古された革の薄い鞄へと繋がっていた。 「……………………。」 「……………………。」 暫く見詰め合って、どれくらいの時が過ぎただろう。 かつてほんの1,2秒すら永遠と思われた、死闘を繰り広げた承太郎にも、お互い見つめあったまま微動だせずにいる時間が、これほどまでに長く感じたことはなかった。 それがもしほんの数秒ではなく、一生の時間を費やして、生まれ直してまた同じ状況に『戻った』と言われても違和感は感じないほどに。 やがて時は動き出し、承太郎の脳が活動を再開して、先ほど発せられた破裂音が、誰かが仕掛けた爆弾の所為でなく、承太郎の動きを察知した花京院の報復のビンタでもなく、他の誰でもない、承太郎自身が、鞄を持ったまま花京院の顔に触れようとした所為で、勢いよく鞄を彼の顔に強かに打ち付けた為に生じた音であると理解した時。 「…………承太郎、君―――僕に、恨みでもあるのかい……?」 何時もなら耳に心地よい花京院の声が、何故か背筋を震わせるのに、承太郎は言葉を紡ぐことも、振り上げたままの腕を下ろすこともできず、固まっていた。 承太郎の計画は、失敗に終わった。 2009/2/13 承太郎誕生日企画 「先輩にイイ目みせてやろう週間第一弾」 …全然いい目見てないじゃないかッ! しょっぱなから失敗。 |