無言
花京院が泣いている。 声を立てずに。 手の届く、その前で。 彼が泣いている。 承太郎の目が覚めた時、時計はまだ3時を指していて、彼は闇の中で聞こえる秒針の音が、鼓動よりも少しゆっくりと刻まれるのに合わせて、呼吸を整えた。 森閑とした空気は冷たく、刻まれる規則正しい時計の音に、自分は今ベッドに横たわっていて、誰も居ない家の、誰も居ない部屋に、誰も隣に横たわることなく、眠っていたのだと承太郎が思い至った時、やっと先程の光景が、夢だったのだと気付いた。 ゆっくりと闇の中で起き上がれば、キシリと小さく軋むベッドが、声を殺した嗚咽のように響く。 一度、ゆっくりと掌で顔を拭い、ため息を吐き出す。 乾いた空気に漂う静寂は、承太郎のため息を咎めることもなければ、気に留める事もない。 妻と別れて数年が経ち、子供と見えるのも年に数度、あればいい方で、大概は海外に出張や研究でこの部屋に戻ることもそうなく、たまに帰ったところで、何をするということもない。 ただ義務のように誂えた『帰る処』に一時でも留まる、それ自体が目的であるかのように、年に数日しかいない部屋を片付けて、殺風景な部屋に其処だけ主張するかのように設えたベッドに眠るだけだ。 承太郎は夢に見た、花京院の泣く姿を思い返す。 承太郎を前に、所在無げに立ち尽くして、僅かに傾けた顔は表情がなく、真白な頬に流れる涙が一筋、唇を濡らしていた。 睫を濡らし、瞳を潤し、頬を伝って流れる涙はけれど、顎までで途切れていて、滴り落ちることもなく、ただ承太郎を少しだけ見下ろしては、愁眉に歪む静かな顔を、無言のままに向けていた。 承太郎は声を掛けようとするが、声はでず、手を伸ばそうとするが、動かず、近付こうと踏みしめるはずの脚は無く、ただ。 泣き続ける花京院の姿を、まるで壁に掛かる一枚の絵のように、じっと見詰めているだけだった。 承太郎の家庭が修復不可能なまでに陥り、法廷でのみ妻と見える事になってから、見るようになったこの夢は、時々思い出すように承太郎の眠りの中に現れて、真夜中の覚醒を促して消えていく。 その度に花京院は泣き続け、何を語ることもなく、何の表情を見せることもなく、承太郎に困惑と戸惑いを齎しても、何の仕草を見せることなく、彼をじっと見詰め続ける。 まるで独り残された承太郎を、哀れむように、むしろ悲しむように声を立てずに泣く姿は、エジプトの旅の間、彼が一度として着崩した事のない、制服のままだ。 そういえば彼は旅の間も何度か涙を見せたけれど、決して慟哭に肩を震わせることも、震える声で言葉を紡ぐ事もなかった。 けれど、歪む眉や引き締めた頬や、戦慄く唇は、語る言葉よりもずっと雄弁に、涙を一杯湛えた瞳は饒舌に、その涙の意味を語っていたと思い出せば、夢の中の彼の泣き顔は、過去の記憶に残るどんな彼の涙よりも悲しく、痛々しいと思えてならない。 まるで眠る承太郎の、無防備になった心を代弁するかのように、涙を流さず『悲しい』とすら感じることに疎い承太郎の感情を、引き受けるかのように泣く花京院を思い出して、『お前は自分の為に泣くことは無かったな』と独り、承太郎は夢の中の彼に語りかける。 一度だけ見せた、初めての涙は彼自身の為に流れたのだろうけれど、その姿はもう曖昧で、閉ざしていた自身の心を昇華させるための涙であるというよりもむしろ、彼の心を何の気概もなくこじ開けた承太郎への、無条件の降伏と自身の精神の譲渡なのだとしたら、それは彼自身のためだけでなく、承太郎への涙だったのかもしれない。 そう考えればなお更、何時も人の為に流す彼の涙が、今もまた、自分の為に心を痛めているものだとすれば、『お前は何時までも、自分を鏡にして世話を焼く奴だ』と、苦い笑みを浮かべずには居られない。 悲しむ事のできない承太郎の代わりに悲しみ。 泣く事を忘れてしまった承太郎の為に涙を流し。 そして、誰も知らない、独り残された闇夜の部屋に現れては、承太郎の鏡になって孤独や悲哀を突きつけてくる。 ―――随分と、回りくどいやり方で皮肉をやってくれるじゃねぇか。 子供のままの姿で、立ち尽くして泣く姿は、承太郎があの旅から未だに解放されず、前に進んでいないのだと皮肉を突きつけているようだ。 涙を流し、所在無げに見下ろす姿は『お前は本当は誰よりも孤独で、悲しみに打ちひしがれているのだ』と曝しているようだ。 17の時はとうに過ぎ、既に彼の歳の倍以上になってしまった承太郎に、彼は未だに夢の中に現れては、承太郎を癒し、時に叱咤して、崩れかけた心の均衡を、元に戻して去っていく。 どんな姿であれ、彼が夢に現れた後の承太郎の心境は不思議と静かに落ち着いて、それまで逆立っていた気概や、絡み合っていた感情が、穏やかに落ち着くのに、花京院の存在が今になってさえ承太郎を支えているのだと思い知らされる。 妻は、よく『言葉が足りない』と嘆いていた。 『貴方のことがわからない、貴方の思いが伝わらない』と喚いては、言葉の一つ、表情の一つを欲しがって、そのくせ承太郎が発した一言、僅かな表情にさえ反応して、『欲しいものはそんなものではない』と泣いていた。 言葉を重ねれば伝わるのだと、思いは言の葉にしなければ意味はないのだと、けれどその言葉は自分の解るものでなければならないのだと、自分を癒すものでなければならないのだと、彼女は必死に承太郎に言い募り、やがて疲れ果てて、諦めて去っていった。 ―――想いは、言葉にしなければ伝わらないんだよ。 いつか乾いた砂の中で聞いた花京院の言葉は、必要以上に無口な承太郎を宥めるように、眉尻を下げる柔らかな笑みと共に発せられたけれど、彼自身もまた、必要なこと以外は語ることはなかったと、承太郎は思い返す。 その癖人の感情の機微に聡く、承太郎が語るよりも早く、傍にあっては彼を宥め、励まし、癒して、時にからかい半分にざわつかせて、遠くにあっては募る想いに答えるように微笑みかけ、更には面影になってまで、承太郎の代わりに自らの身体で喜びや悲しみを表している。 ―――いいんだよ。君は、そのままでいいんだ。 『饒舌な君は君らしくない』と軽口を叩いて、『ではどちらが真実だ』と真面目に思い悩む承太郎に笑う顔は無邪気に、何処までも承太郎を甘やかしていたけれど。 ―――お前は、一度として自分の事を語りはしなかったな。 いまや思い出にのみ居つづける、彼に恨み事を呟けば、花京院はまた、困ったように笑うだけだ。 言葉が、心を映すためのものであるならば。 では何故、お前は夢の中で声を掛けてくれないのだと、承太郎が彼に語りかけて初めて。 それこそが、かつて妻であった彼女の、胸を裂くまでの悲しみであったのだと今更になって気付き、そんなことも解らなかったのかと、そう思い至る経緯すら、花京院を通して気付いた自分に、花京院は『しょうがない奴だ』と笑みを深くする。 声を挙げずにずっと、承太郎に語り続けて、承太郎がかつて妻にしていた事を、承太郎の代わりにやってのけ、自らが受け入れる側になって初めて気付いた承太郎の愚かささえ、彼は無言で差し出してくる、そんな花京院に。 「嫌味な奴だ。……テメェは。」 鼻じらむように笑えば、頬に伝う、恐らく初めて流した涙に、花京院は酷く穏やかに微笑みかけた。 2008/10/18 日記より転載 |