○○○○家、現る。
「…あれは?」 リムジンから覗く世界はセピア色に染まり、夕暮れの住宅街をアルバムの写真のように見せる。 主人の声に、ハンドルを握っていた男は、道路沿いの歩道に目をやると、眠っている子供を背負い、手を繋いで我が子と歌を歌いながら歩く人の背中を認める。 「ご子息と、空条家の奥方とご息女でございます。」 「…『奥方』?」 「左様でございます。」 バックミラーごしに主人に答えると、後部座席で優雅に足を組んでいた男は徐に顎に手を当てる。 真白な、日に当たる事の無い肌に添えられた指先が自らの顎を撫で、思案する素振りをみせながら、前を行く三人の背中を見やる視線は、ゆるりと細められ、深紅の瞳が狡猾に歪む。 「…あれが、随分と懐いているようだが。」 「左様でございます。」 主人に背中を向けながらも、恭しく会釈をする運転手は、鏡に映る主人の姿を盗み見る。男はしばし前を行く三人を見守っていたが、やがてく、と口角を吊り上げると、視線だけを運転手へと向ける。 「話がしたい。奥方と、子供達をお連れしろ。」 「かしこまりました。」 組んだ足に肘を付いて、男が顎を撫でながら告げると、運転手はまたも恭しく会釈をして車を歩道へと沿える。 近付く背中を見守りながら目を細める男の指先に飾る指輪が、金に輝いた。 「…………。」 膝に眠り続けるジョルノを乗せて、頭をゆるゆると撫でてやりながら、しがみ付いてくる徐倫の背中に手を添えて、花京院は男に向き合った。 徐倫はしっかりと花京院の腰にしがみ付き、親指を浅くしゃぶったまま、大きな目を瞬きもせずに男へと向けている。 背筋を伸ばしたまま向き合う花京院に、男は嫣然と微笑むと、重ねていた足を組み替える。 軽くもたれた肘掛の先には、ガラスの皿にチョコレートが盛られ、男はそのうちの一つを指で摘むと、ゆっくりと唇に添えて口に含む。 ちらりとみえた歯列に、鋭い牙を見つけて、徐倫が首を竦ませる。跳ねる鼓動を癒すように、徐倫の背中に廻した花京院の手がそっと彼女を撫でさすった。 「ご息女は。」 唇の端に付いたチョコレートをちろりと舐める舌は血の色のように赤く、花京院はそっと喉に詰った息を飲み込む。 「お菓子は、嫌いかな。それともチョコレートが口に合わない、か。」 そっと首を徐倫へと向けると、彼女は顔を花京院へと擦り付けて俯く。 「…いえ、先ほどお八つを食べたばかりで。すみません、何時もなら物怖じしない子なんですが、なんだか緊張、しているみたいで。」 花京院は眉尻を下げて微笑むと、しがみ付いてくる徐倫の頭を撫でて娘に視線を向ける。『徐倫、ご挨拶は』と囁くが、徐倫は頑なに顔を花京院の腰にくっつけたまま、首を振って額を擦り付ける。 「すみません。躾けがなっておりませんで―――。」 娘の代わりに謝ろうとする花京院に男は手を翳して、先の言葉を制する。く、と口を噤んで顎を引く花京院に、男は目尻を細めると、引き上げた口角をゆっくりと開いた。 「子供は、正直なものだ。私はどうも子供に好かれなくてね。息子も―――ジョルノも、最初は私に怯えてなかなか懐かなかった。」 『だから気にはしていない。』と続ける男―――DIOは、小さく頷き、視線を徐倫から花京院へと向ける。 「ジョルノは、随分と貴方に懐いているようだ。人見知りの激しい子なのだが、ええと、ミセス―――」 「花京院です。花京院典明といいます。僕のことはただ、『花京院』と。」 ばつの悪そうに、顎を引いたまま目尻を赤らめる花京院を、DIOは満足そうに見守ると、『そう』と相槌を打つ。 「花京院君。時々貴方の名前をジョルノから聞いているよ。息子は随分と貴方を好いているようだ。」 口元を笑みに歪めたまま囁くDIOの声は決して大きくは無いが、花京院の耳に響き、耳元で鼓膜を震わせるほど近くに居るかのような錯覚を起こさせる。思わず震えそうになる首元に力を込めて、奥歯を噛み締めると、DIOは一つ、瞬きをして花京院を見据えた。 「父の膝よりも貴方の膝の方がお気に入りと見える。安心しきって目を覚まさない。私も一つ、肖りたいものだ。一体、どんな―――。」 肘掛に添えていた手を挙げて頬杖を突くと、花京院に向けた視線を逸らさぬまま、ゆっくりと身体を傾ける。音もなく窪む肘掛がDIOの身体を受け止め、膝に置かれたままの手がそっとスーツのズボンを撫でる。 「…魔法を、使ったのかな。」 花京院を見据えた瞳が赤く瞬き、照準を合わせるように細められる。花京院は見詰められるままに、瞬きをするのも忘れて、DIOの姿に釘付けになった。目を逸らそうとしても強張った身体が目を背ける事を拒み、動けずにいる。背筋につ、と汗が滴り、背骨に添って伝うのに酷い不快感を感じながらも身じろぎすらできず、木霊のように響くDIOの声に、眩暈を覚える。 「花京院。」 DIOを凝視し続ける花京院に、DIOは艶麗な笑みを深くして、唇に花京院の名前を転がす。 花京院がひくり、と喉を震わせるのを見逃さず、彼は殊更に親しみの篭った声色で囁いた。 「君は…息子に限らず随分と、皆に愛されているようだ。ぜひともその魅力を、私も―――知りたいものだが…。」 紅を塗ったように赤い唇が、徐々に吊り上げられて、薄く開いた唇から、ちらりと、歯列が覗く、その形が、露になる前に。 「徐倫、降りるの。車、降りるの。」 「…徐倫?」 突然花京院の服を引っ張って、徐倫が必死に駄々をこね始めた。 DIOの声に魅入られたように動けずにいた花京院が、突然喚き出した娘の声に我に返る。 「徐倫、どうしたの。突然…。」 「降りるの。一緒に歩いて帰るのッ!」 夢中で、むしろ必死で花京院にすがり付いて身体を前後に揺らしながら『降りる』と繰り返す徐倫に、花京院は膝に抱いたジョルノを気にしながら、視線をDIOと娘の間に行き来させる。 「ご息女は、車に酔ってしまったかな?」 暴れ出した徐倫の仕草を、DIOは超然と見守っていたが、徐倫が花京院の服の裾を引っ張るにつれて次第に大きく揺れる彼の膝に、眠り続けているジョルノがむずがり始めるのを認めると、一瞬僅かに眉を顰めて、やがて何事も無かったようにゆるりと微笑む。 「すみません。失礼を重ねてしまって。」 「構わないよ。君が謝ることなど、何一つないのだからね。」 徐倫をあやしながら頭を下げる花京院に、DIOはまた手を挙げて制すると、運転手の背中に、車を歩道に寄せるように言いつけた。 「送っていただき、ありがとうございました。」 「こちらこそ。会話が出来て嬉しかったよ。」 膝にしがみ付く徐倫を抱き寄せながら、会釈に腰を曲げて花京院が告げると、DIOは窓から差し込む西日を避けながら、僅かに首を傾けて会釈を返す。 「また、ジョルノと遊んでくれ賜え。」 肘掛にもたれたまま微笑むと、花京院は引き攣った笑いのまま『こちらこそ』と喉から声を絞り出すように返す。 徐倫は花京院の手を掴んだまま、身体を傾けて『早く帰ろう』と促し、DIOの姿を見ようともしない。 振り向きながら会釈を繰り返し、やっとDIOへと背中を向けた花京院に、彼は突然声を挙げた。 「典明。」 聞きなれない、自分の名前を呼ぶ声に、思わずびくりと肩を竦めて振り向けば、DIOは窓から首を傾けて、西日に肌を晒している。 「今度、私の館に来るといい。また、話相手になってくれ賜え。…ご息女も、一緒に。」 日の光を浴びた金の髪を、燃えるような赤に染めて、妖艶に微笑むDIOに、花京院は答えようとする意志よりも先に、唇が動くのを感じた。 「機会が―――あれば。」 掠れた、自分の声がひゅうひゅうと喉から漏れるのを聞きながら、『待っているよ』と言葉を残して閉まる窓に消えるDIOを見送る彼は、徐倫がまた必死で腕を引くのに、身体を揺らす。 過ぎ去る車を見送りながら、呆然と佇む花京院に、徐倫は半べそになって何度も花京院の名前を呼び続ける。 徐々に耳に届く娘の声に、悄然と振り向けば、徐倫は目に涙を一杯に溜めて花京院を見上げていた。 「ごめんね…徐倫。―――もう、大丈夫だから。」 上滑りの自分の声に、急に襲ってきた悪寒に耐えながら娘に微笑みかければ、徐倫は花京院にしがみ付いてきた。 「ありがとうね。君の声で、助かったよ。」 膝にすがり付いて泣き始めた徐倫の頭を撫でながら囁けば、徐倫はしゃくり上げて花京院を呼ぶ。 「…何処にも、行かない?」 「行かないよ。」 今更になって襲ってきた緊張と恐怖に似た興奮に高鳴る鼓動を娘に知られまいと身体を丸めて蹲りながら、泣き続ける徐倫の頭に頬を摺り寄せ続けた。 車の中で、独り息を震わせて笑う気配が響き渡る。 「DIO様。お戯れを。」 傍らで眠り続けるジョルノの頭をゆるゆると撫でながら、肘を付いた拳に唇を添えて笑うDIOに、テレンスが控えめに告げると、彼はちらりとフロントガラスごしにテレンスを見やって目を細めた。 「何ともまぁ、美しい親子愛ではないか。」 『そうは思わないか、テレンス』 微笑ましげに、むしろ揶揄するように続ければ、テレンスは首を垂れて答える。 「徐倫様は、花京院様を守ろうとなさったのでしょう。」 「…そうではない。娘のことではない。」 しかし続く言葉を遮られ、テレンスは首を僅かに傾けて、主人の次の言葉を待つ。 「あの男、物腰は柔らかいが、警戒心は人一倍強いと見える。娘と自分をスタンドを糸にして巻きつけて、いつでも車から一緒に飛び出せるように構えていたぞ。」 『お前感じなかったのか。』とスタンドの存在を教えれば、テレンスは『申し訳ございません』と深く首を垂れる。 「それにしてもあの娘、このDIOの前でも怖気づくことなく向かってくるとは。血は争えないものだ。」 言うなり窓に映る景色を眺めて、DIOは沈黙する。車内に響く、子供の寝息が微かに響き、散漫に息子の頭を撫でるDIOの手が、ひたりと止まる。 「気に入ったぞ。」 「徐倫様、でございますか。」 テレンスの声に笑みを深くするDIOは、窓に映る景色が、徐々に闇にまぎれていく様を楽しんでいるかのようだ。 「ジョースター家をこの私が気に入るはずがあるまい。空条承太郎の最も大切にしている存在を、だ。抜け目なくスタンドを忍ばせて子供を守るのも気に入った。このDIOに媚びないのもいい。」 脳裏に思い浮かべるのも楽しげに、歌うように言葉を紡ぐDIOの頬を、街の灯が照らす。 「欲しいな。」 「…DIO様、お戯れを。」 控えめに咎める僕の声にも、DIOは上機嫌に喉を鳴らすだけだ。 屋敷に近付くにつれ明かりの少なくなる道に、闇を煌々と照らして、リムジンは走る。 音もなく街を通り過ぎる車内で、DIOの笑い声だけが響き渡る。 「しばらく、退屈しなくて済みそうだ。」 2008/7/29 …続………かない。多分。 |