空、海、心




「冗談じゃねぇ。冗談じゃねぇぞ……ッ!」

承太郎は肩で息をつきながら、繰り返される蘇生の度に叫んだ。

ずぶぬれになった制服が、肌に張り付く不快も、べとついた海水が耳に膜を張って、皆の声が聞こえないことにも気付かず、ただ必死で、横たわる姿に覆い被さり、肺に吸い込んだ自らの酸素を吹きかける。

ひくり、とも動かぬ腕は、ボートに投げ出された格好のまま、だらりと弛緩している。

長い髪は海水をたっぷりと含んで、頬に張り付いたままだ。

普段から露出が少ない為に色白の肌は、いまや蒼白となり、それはとりもなおさず、血液が全身に巡っていない事を意味している。

承太郎の傍らではジョセフが、胸に両手を重ね、ポルナレフの合図に従って押し付ける。

足元のアブドゥルは投げ出された下肢に、自らの上着を掛けて、血液の循環を促そうと脚をさすって温めている。

「1,2,3,4,5ッ!」

怒号に近い合図に従い、承太郎が再び覆い被さる。

逸らされた喉が未だ上下しないことに焦りながら、鼻を摘んで開いた口に自らの唇を押し付け、一杯に広げて息を吐きかけた。

開いた制服から覗く胸元が、承太郎の息に合わせて膨らむ。

しかしその胸が自主的に動くことはなく、承太郎はジョセフの心臓マッサージの合間、頬を叩いて名前を呼びかけた。

「花京院ッ!」

悲鳴に似た、承太郎の呼びかけに、未だ答える声は無い。





SPW財団の用意した船の船長に化けたスタンド使いを、承太郎が海上で倒したのも束の間、船は爆破に見舞われた。

訓練で、緊急時の対応には慣れているはずの船員達は、彼らがSPW財団の社員ではなく、あくまで依頼された人員だったこともあり、またスタンドなどという、一般の人間には人知を超えた現象を目の当たりにして、冷静な判断を失ってしまった。

慌てふためく船員達はジョセフの指示に従いながらも、用意されたボートに我先に乗り込もうと躍起になる。

連なる爆破は皆の背中を押し、鼓膜を叩く轟音が恐怖を駆り立て、パニックに陥った皆は甲板に這いずり回りながら、用意されたボートを海面へと投げ飛ばした。

既に海面に居て、ボートへ泳ぎ着いた承太郎が、飛び込む船員達を誘導する。

爆破の度に次々と吹き飛んでくる瓦礫が、海面に叩きつけられ、大きな波を作っては、飛沫となって彼らに襲い掛かった。

その頃になると、他のスタンド使い達も皆海面へと脱出を図り、次々にボートに泳ぎ着いては、後に続く者達を助けるべく手を差し伸べる。

飛んでくる瓦礫を各々のスタンドで弾き、燃やしつくし、あるいは落下物の作る波に飲まれそうになる船員を引き寄せ。

沈没する船を背に、何とか命の危機を脱しようとした、瞬間だった。

一際大きな爆破が起き、承太郎達の乗るボートではない、船員達だけが乗るボートに泳ぎ着こうとした者達が、海面に突き刺さるメインマストの作る渦に、飲み込まれたのだ。

突如海面に巨大な槍が突き刺さり、其れは大きな竜巻のように渦を巻いて海底へと飲み込まれる。

爆破の衝撃で出来た波と、反動でできた飛沫が織り成す波が、うねりを帯び、ボートを簡単に飲み込むばかりの深い口を大きく開けて、承太郎たちの前に現れた。

漆黒の、巨大な闇は渦を巻きボートを翻弄し、何とかたどり着こうと死に物狂いで泳ぎ逃げる船員をあざ笑うかのように、引きずり込もうとする。

その、彼らに。

翠の蔦が伸び、瞬く間に束となって巻きついた。蔦は船員達を引き上げようと、細い蔓を幾重にも重ねて、ボートへ引き寄せようとする。

花京院のスタンドが、船員達へと伸びたのだ。

しかし、彼のスタンドが距離を取れる代わりに、力が無いことが災いした。

蔦はぶちぶちと途切れ、見る間に花京院の肌を切り裂く。

更に大きな渦は彼のスタンドをも、嘲笑するかのように、波に翻弄される船員達はおろか、花京院までも引きずり込もうと、勢いを増したのだ。

ガクン、と身体を震わせ、花京院の身体が海面へ引っ張られる。

承太郎がその身体へと手を伸ばすのと、花京院の身体が宙に浮いたのは同時だった。

一瞬触れた、彼の身体が、腕をすり抜けて海面へと飛び込んでいく。

咄嗟に呼び寄せたスタンドで、彼を追いかけようと群青の手を伸ばそうとした瞬間、背中からの悲鳴に振り返る。巨大な瓦礫が承太郎たちの乗るボートへと飛び込んできたのだ。

乗用車程もある瓦礫が彼らのすぐ目の前へと迫る。

「ジジィッ!!!」

ジョセフに叫んだ承太郎は、躊躇しなかった。

迫り来る瓦礫をスタンドの拳で弾き返し、反動で揺れる船体を、他のスタンドと共に海面から受け止める。

承太郎に呼ばれたジョセフは、承太郎の代わりに花京院へと自分のスタンドの蔦を伸ばし、彼の身体を引き寄せようとする。

しかし紫色の蔦が、花京院の身体へと伸び、彼の身体に絡みつく寸前、花京院は、残ったハイエロファントの触手で、ジョセフのスタンドを弾き返したのである。

「花京院ッ!」

弾かれたスタンドが反動をつけてジョセフの元へ戻る。花京院はそのまま海面へと叩きつけられ、一瞬にして波の中に掻き消えた。

同時に、花京院のスタンドに巻き付かれた船員達が、宙に弾き飛ばされ、ボートの目の前に着水する。

「花京院ッ!!」

思わず身を乗り出して、海面へと引きずり込まれた花京院に必死に手を伸ばすジョセフに、背中からポルナレフが抱きつく。

「危ないジョースターさん!この勢いじゃあ、あんたまで巻き沿いになるッ!」

喚きもがくジョセフの背中にしがみ付きながら叫ぶポルナレフが、それでも必死で花京院を助けようとするジョセフを止めるべく、他の者に助けを求める。

アブドゥルと承太郎の名前を呼ぼうと、振り向こうとしたポルナレフの視界に、突如黒い影が横切る。

目で追うとその影は、迷わず海面へと突き刺さる。

承太郎が、花京院を追って、自ら渦の中に飛び込んだのだ。

「―――承太郎ッ!!!」

瞬く間に波に消えた承太郎と花京院の姿を、叫ぶ以外に見守ることしかできず、ジョセフはボートの手すりに拳をたたきつけた。



渦を巻く水の流れに身を任せながら、承太郎はスタンドで花京院の姿を追う。

青の闇が海底まで続き、収束する渦の中心は、爆破で飛び散った船の破片を次々と吸い込んでいく。その海流の勢いに、胴体と脚がもぎ取られる痛みに耐えながらも目を凝らすと、海面の光が僅かに届く先に、回転しながら流れに巻き込まれようとする人影が映った。

捉えた人影を追うべく、スタンドの脚で波を蹴り、承太郎は自ら海の底へと潜っていく。

落ちて行く花京院は既に意識を失っているのか、制服の裾を波にはためかせ、だらりと弛緩した白い手が、波の流れにそってたゆたう。

わずかな光の中で、それでも白い彼の手へ、承太郎は精一杯に手を伸ばし、彼を引き寄せようと更に海水を蹴った。

指先に掠れる程に触れた花京院の爪先が、海流に流されすり抜ける。

長い髪が僅かに開いた口にかかり、其処から気泡が洩れることはない。

―――手を、伸ばせ。

はためく彼の指先目掛けて、スタンドは勢いを増して海底へと突き進む。

あと少しで届く、花京院の身体を、自分のスタンドなら捕らえきれるであろう、しかし承太郎は、スタンドの手で花京院へ手を伸ばすことはしなかった。

白い生身の手が、承太郎へ向けて伸ばされているように、見得たのだ。

―――手を。

肩が外れる程に腕を伸ばすと、花京院の制服の裾が、指先に触れる。承太郎はすかさず裾を掴み、彼を渾身の力で手繰り寄せた。

反動でがくりと揺れる花京院の身体が、承太郎の元へ引き寄せられる。

花京院の手を引き、抱き込むと、承太郎は彼を抱えたまま、波の流れに従った。

しっかりと抱いた身体に抵抗はなく、鼻先で揺れる髪に頬を押し当てて、自分の身体の中へ取り込んでも、身じろぎはおろか、ひくりとも動かない。

先ほどのスタンド使いとの戦いで得た、波の流れを見方につける方法は、身体が憶えている。力を抜いた身体は渦の流れに従いながら、浮力を得て少しずつ海面へと近付いていく。

深い闇から見上げる海面は、光の差し込む無数のガラスの破片のように煌いて、淡い光が承太郎まで注ぎ込む。

光の道筋が彼を導くように、群青から翠へと変わった波の色が、承太郎の身体を包んだとき、彼は腕の中の花京院を一層強く抱きしめて、スタンドで水を思い切り蹴り上げた。

爆発する気泡を立てたスタンドは、二人を海面へと押し上げる。

水圧の急激な変化に痛む耳に耐えるべく、花京院の頭ごと、自分の顔を腕に埋めながら、真直ぐに天へと昇っていく。

制服を海底へ引っ張る海流と、浮力を増す気泡の大群に、肺に溜め込んだ息が上手く吐き出せず、痛む胸を歯軋りをして耐える。吸い込んだ息が肺の中で膨張していく。息を耐えているのにも限界を迎え、呼吸を渇望する熱い胸元が一気に空気を吐き出し、悲鳴を挙げる。

それでも腕の中の身体は離すまいと、一層花京院を抱き込んで蹲ると、海面から飛び込んできた茨の蔦が、承太郎と花京院の身体を包み込み、引っ張り挙げた。

海面へと顔を出すなり、顎を挙げて肺一杯に空気を吸い込む。勢いで跳ねた飛沫が海中でも脱げることのなかった帽子を弾き飛ばした。

「承太郎、花京院ッ!」

声のする方へ顔をむけると、茨の蔦を伸ばすジョセフの傍らで、アブドゥルとポルナレフがスタンドを発現させ、承太郎達を引き寄せる。

あれほど激流を孕んだ海水は、今は大きな波のうねりだけを残し、承太郎と花京院の身体を浮き沈みさせている。

彼は花京院を抱きしめたまま、肩を掴むアブドゥルのスタンドの手を借りて、ボートへと引き上げられた。

ざばりと音を立ててボートに引き上げられると、承太郎はそこで初めて花京院を手放して、仰向けに倒れこんだ。

肩が揺れる度に痛む肺に、思う存分酸素を詰め込みながら空を見上げると、忌々しい程澄んだ蒼が、彼の目に飛び込んでくる。

目を焼く蒼に顔を顰めて意味もなく捨て台詞を吐くと、肘を突いて起き上がり、傍らで気を失ったままの花京院へ視線を投じた。

彼は眠るように瞼を下ろし、くたりと首を甲板に傾け、承太郎へと身体を向けている。

長い前髪を唇で噛み、頬に掛かる毛先から伸びた水の糸を顔に貼り付かせ、ボートの底に水溜まりを造っている。

濡れた白い肌が日の光を浴びて、てらてらと輝いて、承太郎の瞳に反射した。

「……おい、花京院。」

頬を軽く叩きながら、名前を呼びかけるが、彼が起きる気配はない。

「花京―――。」

どころか彼の頬が見る間に青白く変色していく。

「……おいっ!」

肩を揺さぶり呼びかける、承太郎の声に、安堵に沸いていた他の皆が、振り返る。

―――息、を。

彼らが振り向くと、花京院の両肩を揺さぶりながら、必死で彼によびかける、承太郎の姿があった。

「承太郎?どうした。」

アブドゥルの呼びかけにも答えず、花京院に呼びかけ続ける承太郎に、皆緊張が走る。どのようなパニックにありながらも、沈着冷静としていた承太郎の、血相を変えた形相に、彼らは未だ窮地を脱していないことに気付かされる。

慌てて駆け寄り花京院を覗き込む、皆を背に、承太郎は花京院を揺さぶりながら、名前を呼び続ける。

がくがくと揺れる身体から滑り落ちた腕が、ごとり、と音を立てた。

「―――くそっ!花京院…ッ!!」

馬乗りになった承太郎に、顎を突き出して、花京院の首が逸らされる。傾いた首が、力の抜けた重い頭を廻らせ、その口元から海水が流れ落ち、ボートに滴った。

「冗談じゃねぇ。テメェ、息をしやがれ…ッ!」

言うなり承太郎は、彼の胸倉を掴んで、思い切り左右に引き裂く。

制服のボタンがはじけ飛び、ボートの壁面に転がる。

露になったシャツをも引き裂き、胸元を露にすると、平らな胸と、膨張した腹を押さえ、飲み込んだ海水を無理矢理吐き出させた。

外から腹圧を掛けられ、花京院の身体が「く」の字に曲がり、揺さぶられた首が床にぶつかり鈍い音を響かせる。

水を吐き出す濁った音が喉から湧き出て、海水と共に腹に溜まった小さな藻屑が吐き出され、花京院の頬を滑った。

「ジジィ、蘇生だッ!」

承太郎は跨っていた花京院から降りると、彼の頭部の横で跪き、開いたままの口に指を突き刺す。

喉元から吐き出した藻屑が、舌に張り付いていたのだ。

親指と人差し指で口内を掻き回すが、生理現象として分泌するはずの唾液が溢れることなく、滑らかであるはずの舌が、海水に浚われてざらついた感触だけが、承太郎の指先に触れる。抜き取った藻屑を喉から引きずり出せば、大きく開いたままの口腔から覗く舌が、弛緩して喉を塞ごうとするのが見て取れた。

承太郎は花京院の額を掌で押さえつけると、喉を逸らして顔に覆い被さる。

自らの舌を差し出して垂れ下がろうとする舌を下顎に擦り付けて、塞がれようとする気道を繋ぎとめる。

花京院の口を自らの唇で塞ぐ承太郎の行為を人工呼吸とみなしたのか、ジョセフが花京院の鳩尾に指を宛がい心臓の位置を探ると、両手を胸に押し当てる。

時計の針に合わせて繰り返される心臓マッサージに、彼の身体がびくり、びくりと揺れる。承太郎はジョセフの指示に従いながら、気道を確保すると、リズムに合わせて息を吹きかけた。

冷たい、濡れた頬が、顔を押さえる承太郎の指先から体温を奪っていく。

―――冗談じゃねぇ、こんな処で。

乾いた唇に注ぎ込んだ息が、自ら呼吸を刻むことはない。

繰り返される心肺蘇生に、じわじわと競り上がる焦りが、知らず承太郎の息を乱す。

気付けば力を込めないと震えようとする指で、花京院の顔を押さえ、飲み込みそうになる自らの息を注ぎ込む。蒼白の肌を覗き込めば、揺れる視界に映る花京院が、自ら動く様相が無い事に、全身が熱を噴出すように熱くなった。

―――息、を。

重ねる唇は柔らかく、触れた頬は滑らかに、指先に絡みつく髪は艶やかに流れ、初めて触れた感触が繊細であればあるほど、承太郎を一層焦らせる。

まだ、良くも知らないのだ。

この男の、人を寄せ付けない気高さも、垣間見せる寂しさも、控えめに見せる優しさも、繊細と共にある可憐さも。

まだ、良くも知らないのに。

余りにも強すぎる印象を承太郎に刻み込んだ最初の出逢いから、命のやり取りを繰り広げた先に見た、本当の彼を形に出来るほど、承太郎はまだ花京院という存在を、掴めていないのだ。

―――まだ、お前の、何も。

花京院の、何も知ってはいないのだ。

初めて承太郎の心を突き動かす、強烈な個性と存在に、戸惑いながらも近付きたいのだと、知りたいのだという感情を、消化し切れていないのだ。

ジョセフが心臓をマッサージするのに合わせてびくびくと揺れる身体の振動が、顎を押さえた承太郎の手に伝わり、気道を確保しようと固定する力を込めるほど、とられた顎が自らの意思で承太郎の手を払いのけるのを、祈るような気持ちで待ち望みながら、弛緩したままの唇に、息を注ぎ込む。

平たい肺は、水を飲みはしたが肺にまで水を含んでいない証拠だ。

承太郎が花京院を助けようと飛び込んでから、ものの数分と経っていない。ならば、彼の心肺停止からはそう時間は経っていない。血液循環の停止した脳や全身に、影響があるほどの時間はない、筈なのだ。

―――とっとと。

長い睫を間近で覗き込みながら、海水の珠を含む其れが揺れるのを待ち望む。

―――何時まで、寝てやがる。

承太郎の膝頭に僅かに触れる手が、氷のように冷たい。

―――いい加減。

「起きやがれ、花京院ッ。」

搾り出した自らの声が、水の膜を張った耳に、遠く聞こえる。

ジョセフが義手を包み込んだ両手で、花京院の胸を叩きつける。

ドン、と鈍い音をたてた、白い胸元に沈んだ拳の衝撃を和らげるように、彼の身体が撥ねる。

「起きてくれ…ッ!」

叫び声が、悲鳴に変わった。

興奮と、焦りと、恐怖のない交ぜになった感情で、激しく息を乱した承太郎の声が、花京院の耳に響く。髪に食い込む指先が、じり、と音を立てて細面の顔を締め付けると、今まで何の反応も示さなかった彼の咽頭が、ごぼ、と濁った音をさせて響いた。

喉元に触れる指先に目をやると、競り上がる空気が水分を含んで、大きく揺れる。

ぐ、と詰った音が、開いた口の奥から聞こえ、口腔の奥で生まれた薄い泡の膜がはじけると、花京院は突如海老反りになって残った水を吐き出した。

獣の、断末魔の咆哮のような音が、喉からせり上がり、胃液混じりの海水を吐き出そうとする生体の動きが、激しい咳を促す。

彼は承太郎の腕の中で一頻り暴れながら咳き込むと、咽る喉を引っ掻こうとしているのか、力の入らない指先で、甲板に爪を立てた。

見る間に昂揚していく頬は、彼の耳を飾る赤珊瑚のように赤い。

「ぐ……っ。」

血の巡りを取り戻した全身は、彼に力を漲らせ、動けるようになった手で、焼け付く喉を押さえる。

滲む涙を、固く閉じた瞳に浮かばせながらも、何とか自ら呼吸を取り戻した彼は、全身を震わせながら、ひゅうひゅうと喘鳴を繰り返しつつ、久しぶりの空気を吸い込んだ。

覗き込む皆の前で、ずっと閉じていた瞳が揺れる。

「…う……。」

滲んだ視界を瞬かせて、それでも目を開けると、彼を一斉に覗き込んだ皆の顔が、影を差して取り囲んでいた。

眉を顰めて自分を取り囲む影の隙間から注ぎ込む太陽の光に目を凝らす花京院の瞳が、再び閉じようとするのに、承太郎は彼の両頬を勢い良く挟み込み、『閉じるな』と低い声で叫ぶ。

小さく首を振って、唸りながら声に従い目を開ける彼の、飴色に瞬く瞳が再び開かれると、、緊張を含んだ皆の顔が、一斉に安堵に崩れていった。

何が起きたのか分からないと、目を泳がせている彼に、ポルナレフが飛びつく。

「花京院ッ!」

抱きすくめられるまま起き上がらされると、今度は背後からジョセフが飛びつき、状況を掌握できないで困惑する彼を、二人して挟み込む。

ごほ、と圧迫した肺が悲鳴をあげると、その振動が彼らに伝わったのだろう、慌てて二人は抱きついていた花京院から離れ、目に一杯涙を溜めながら、『よかった』と肩を激しく叩きだす。

混迷する意識をそのままに、花京院が廻りを見渡せば、アブドゥルが膝立ちになったままがくりと肩を落として、胸に手をやって大きくため息を付いている。

何があったのか、など。

記憶の混濁で理解し得ないながらも、自らの身が危険に晒されていたことは、朧げに分かる。

それより彼が戸惑ったのは、自分を囲み涙まで流し、身内のように彼を気遣う皆の態度だった。

今まで、こんなにあからさまな態度を受けたことなど、花京院には一度として無かったのだ。

両親は彼をとても愛しているのだと知っているが、それでも、スタンドのおかげで彼らの前で一度も危険に遭ったことの無い花京院に、取り乱して縋ることなど、なかった。

目を開ければ、焼け付くような太陽と、目に痛い蒼の下、身体中を走る痛みと共に、注がれる不躾なまでの愛情が飛び込んできた。

まだ出会って数日しか経っていない、お互いにまだ知りもしない者達から。

抱きしめられ、縋りつかれ、涙やら洟まで擦り付けられて、がくがくと揺さぶられ、男泣きに泣く彼らに何度も名前を呼ばれ。

そうして、それに呼応するように胸の奥から湧き上がる、むずむずとした高揚感に、花京院は戸惑い、背中から競りあがってくる疼きにも似た感情の突き上げに、叫び出したくなりながらも、それを面に表す術を知らない彼は、ぎごちなく。

頬を引き攣らせて、笑って見せた。

傾けた首から垂れる長い前髪を肩に滑らせ、濡れた髪からはたりと落ちる雫が頬を伝い、唇に吸い込まれて塩味を噛み締めながら。

奥歯に力を込めて微笑むと、突如、視界の端に飛び込んできた黒い影の、正体を見届ける間もなく、左頬に鋭い衝撃を浴びて身体が揺れる。

熱い、と思う間もなく、骨を軋ませる衝撃に、少しでも受け止めた力を逃そうと、反射的に身体が吹き飛ぼうとする。

それを花京院の前後で見守っていたポルナレフとジョセフが受け止め、彼は再び海水に叩きつけられる事を間逃れた。

「承―――ッ!」

目の前に散る、極彩色の赤が視界を遮り、それが太陽の軌跡によるものだと花京院が認識した頃には、遠くで承太郎の暴挙を咎めるジョセフの叫び声を背に、承太郎が花京院の胸倉を掴み、仰け反った身体を引き寄せていた。

だらりと弛緩したまま差し出された花京院の身体は、承太郎の片手で充分支えられる程に近く、吊り上げられる。

殴られた際に切った口の端から血を滲ませ、花京院が承太郎を見上げると、彼は緑の目を深紅に染めて、花京院を睨みつけていた。

「冗談じゃねぇぞテメェ…敵スタンドでもねぇのにやられやがって。挙句心臓まで止めて死に掛けて。生き返ったてのに、人事みてぇにヘラヘラ笑ってんじゃねぇぞ…ッ。」

乱れた息が唇に掛かりあう間近で、噛み付く勢いで承太郎が詰め寄る。

承太郎の罵声を聞きながら花京院は、彼の開いた唇から覗く歯を見詰めていた。日の光を帯びてキラキラと光る乳白色の歯列が、唇を閉じる度に視界から消えて、真珠のように綺麗なそれが、見え隠れするのがもったいないと、思っている。

瞳へ視線をやれば、花京院の好きな、新緑の葉の、透き通るように鮮やかな緑が、たっぷりと水分を含んで、中でぼんやりとした顔を映す自分の顔がゆらゆらと揺れている。

燃えるような熱い頬が、じんじんと疼き、花京院は自分が承太郎に殴られたのだと、ようやっと彼の顔を見詰めながら思い出すと、承太郎は一層に花京院の胸倉を掴み上げて顔を近づける。

「テメェ、簡単に…簡単に、くたばってんじゃねぇぞ…ッ!」

ぐ、と密着した胸が、激しい鼓動を刻むのに、それは自分の物ではなく、承太郎のものだと気付いた時、

「やめんか、承太郎ッ!」

飛び込んできた腕が、承太郎と花京院の間に割って入る。

間に入ったジョセフが花京院の胸倉を掴んで揺らす承太郎を突き飛ばし、アブドゥルが、承太郎を羽交い絞めにして、掴みかかる承太郎を引き留めた。

離れ際に突き飛ばされた花京院の身体を、ポルナレフが支える。

纏わり付く腕を振りほどこうと承太郎が腕を廻すと、背後にしがみ付いていたアブドゥルの手が弾き飛ばされる。

花京院へと目をやれば、彼は、ポルナレフに抱えられるまま、ぼんやりと承太郎を見詰めていた。

赤く染まった頬もそのままに鳶色の瞳を向ける彼は、承太郎の怒りも、殴られたことも、その意図を理解できていないのか、戸惑いの表情を隠さずにいる。

息を呑んで上ずった感情を飲み込む彼の、真直ぐに向けられる視線に、承太郎は、先ほどの怒りが急激に冷めて行くのを感じる。

尚も握り締めた拳を、それでも解くことができずに、喉に引っかかった声が、何を紡ごうとしているのか、吐き出せずにいると、花京院の前に進み出たジョセフが、承太郎に背を向けて、無防備な視線をジョセフに移した花京院へと手を伸ばした。

そっと額に手を当てると、花京院に目を閉じるよう囁きかける。

ジョセフの身体が、僅かに発光して、恐らく波紋を送り花京院の体調を診ているのだろう、彼の胸にそっと手を当てると、花京院はひくりと震え、ポルナレフに支えられるまま、がくりと崩れ落ちた。

「おい、ジジィ。」

「心配するな。眠っておるだけだ。」

承太郎は中途半端に振り上げたままの拳を、だらりと降ろす。

ポルナレフの腕の中で眠る花京院の寝顔を見下ろしながら、行き場の無い怒りや戸惑いが、緩く握られたの拳の所在の無さと共に、胸に蟠りとして残った。







ボートで海に漂い、救助を待つ彼らの前に、突如現れた巨大貨物船に乗り込み、人影のない船内を詮索しようと二手に別れ、承太郎と花京院は、無言のまま船内を人の気配を求め歩く。

ほの暗い通路は鉄の匂いを発し、排水溝から洩れた雫がひたひたと漏れて、二人の革靴の音に混じって辺りに響く。

湿った空気が、未だ濡れたままの制服に纏わりつき、それは無言でいるお互いの重苦しい雰囲気とない交ぜになりながら、二人が紡ぐ息に混じっていった。

花京院は、そっと前を行く承太郎の背中を見上げる。

前を寛がせて羽織った制服をなびかせながら歩く彼の、ズボンのポケットに手を突っ込んだ所為で盛り上がる背中の筋肉が、制服の上からでもはっきりと見える。先ほど花京院の胸倉を掴んで必死の形相で掴みかかってきた剣幕は嘘のようになりを潜めて、今は静寂を纏っている。

「ありがとう。……君に、命を助けてもらったのは、これで―――二度目、だ。」

振り向かない背中へ呼びかける。聞けば彼は自ら海に飛び込んで、海底に沈んだ花京院を引っ張り上げたのだという。いち早く呼吸停止しているのにも気付いて、蘇生術を施したのも承太郎なのだと、花京院は目覚めて聞いたポルナレフの話を、しけた煙草のフィルタを噛む承太郎の横顔を見詰めながら聞いたのだ。

「別に、何てこたぁねぇ。」

唇に乗せる程度に発した小さな声は、狭い通路には響いて聞こえ、承太郎の返事もまた、低く唸る船の振動にあわせて響いた。

「でも…君の命も、危なかったんだろ?」

意識してやったことではないとはいえ、咄嗟に承太郎が飛び込んだ時の波の勢いは、人一人など簡単に海底に叩きつけることができる程、凄まじかったのだ。

掠れた花京院の声を聞きながら、承太郎は一瞬脳裏に浮かんだ、渦を巻く淵に沈んでいく花京院の姿を思い浮かべる。

海流に翻弄される身体は、激流に吸い込まれる小さな一葉のように頼りなく、光の届かぬ海の底で白く光る彼の手が、それでも無意識に承太郎に伸ばされたのを、必死に手を伸ばして掴んだ。腕の中に抱いた、力をなくした身体や、波に揺れる長い髪の、唇に掛かる様の空虚さなど、今花京院が生きているからこそ、そこにあったのは『空虚』だと、思い起こすことが出来るものだ。

死ぬかもしれない、などと。

海に飛び込んだ時も、海中で抱きしめた時も、微塵も考えはしなかった。

ただボートから花京院が投げ出された瞬間の、腕の中をすり抜けていく喪失感だけが承太郎を突き動かし、『助ける』などという感慨すら、当時は思いもしなかったのだ。

「……テメェは、沈みかけた船の奴らにスタンドを伸ばした時、自分の保身を考えたか?」

「そ、れは―――僕の場合は、事故…みたいなもの、だったから。」

しどろもどろに答える花京院に、承太郎は答える代わりに『ふん』と鼻であしらう。

―――そうだ、アレは、事故だ。

投げ出された花京院も、飛び込んだ自分も、花京院の手を見たときの、勝手な感慨も、呼吸を止めた彼も。

目の前で危機に陥った者を助けるのは、もはや脊髄反射のように当然で、意志を伴うまでの時間を要すまでもない。すり抜けた身体を、腕の中に引き寄せなければと思ったのは、それが誰であったとしても、同じ事を考えただろう。

……たとえ、それが花京院ではなく、他の誰であったとしても。

そのくせ必死で花京院の口を自らの唇で覆い、息を吹きかけた時の、首筋を焼き尽くすような緊張と、震えそうになった指先の強張りを、忘れられずにいる。

開いた白い胸の微塵も動かなかった様や、仰向けにされた目元の窪みにできた小さな海水の水溜りに、視界が暗くなった事を、振り払われずにいる。

背中から聞こえる、逡巡を含んだ息遣いは、沈黙の中で承太郎の背中に伝わってくる。

目覚めてぎごち無く笑ってみせた、彼の表情は、皆を安心させる為のものだったのだと、感情を面に表すのが下手なのだろう彼の、精一杯の親愛の表現だったのだと知りながら、湧き上がった怒りが、今は焦燥に似て、またふつふつと胸の中で燻るのに、承太郎は今は乾いた掌を、ポケットの中で握り締めることでやり過ごす。

じゃり、と握った掌に当たる、冷たい金属の感触に気付くまで。

「……おい。」

立ち止まった承太郎が声をかけると、背中にぶつかる寸前でつんのめりながらも、触れることなく済んだ花京院へ、肩越しに視線を送る。

おずおずと、上目遣いに承太郎を見上げる彼に、ポケットからごそりと引き出した手を握ったまま、目の前に突き出す。

承太郎の拳と顔を交互に見詰める花京院が、顎を引いたまま、ゆっくりと開く承太郎の拳を覗き込むと、其処には、花京院の蘇生の際、制服を引き裂いて飛び散った筈の、学生服の金釦が、無くした数だけ握られていた。

「―――こ、れ……。」

「無くすんじゃねぇぞ。」

思わず開けた制服の前を握りながら、花京院が驚いた顔を隠すことなく見上げると、承太郎は『ボタンだけは現地調達できねぇ』とぶっきら棒に呟く。

差し出された掌のボタンを見詰めながら、口の中で小さく礼を述べる花京院の頬は、殴られた方が、うっすらと赤く染まっている。

承太郎は、俯いたまま未だボタンを受け取れずに、逡巡している花京院を見守りながら、そっと空いた方の手を彼の頬に添えた。

弾かれたように顔を上げる彼の肌に、ひたと指先を寄せる。

ひんやりとした皮膚は、けれどボートの上で触れたよりも温かく、しっとりと弾力を帯びて、赤い跡に指を滑らせれば、痛むのか、小さく肩を揺らす。

「殴って、済まなかったな。」

その肌の感触を何度も指を滑らせて確かめながら囁くと、

「……明日、腫れ上がったら、君の所為だ。」

花京院は、眉を潜めて笑いながら、頬に触れる指に顔を傾けた。

「そんだけ憎まれ口が叩けるんなら、元気だっつぅ証拠だな。」

眉を上げて返すと、彼は目を見開いて、改めて自分の発言の、意外と棘のある事を思い出したのか、うっすらを頬を染める。

瞬きを繰り返して唸りながらしどろもどろになる彼は、頬を撫で続ける承太郎から顔を逸らして、指先で口を覆う。

眉尻を下げて当惑の表情を露にしたまま、鮮やかに頬を染める彼の、あどけない表情に、燻り続けていた胸のわだかまりが、突き上げるように押し寄せて、承太郎は釦を握ったままの腕で花京院の首を引き寄せ、自分の胸元に押し付ける。

どん、と音を立てて飛び込んでくる身体を、自分の中に押し込むようにぎゅうぎゅうと取り込んで抱きしめると、胸に顔を埋めて呻く彼の髪に、自らの頬を押し当てた。

海面から引き上げた時の、動かぬ人形と化した彼の様子は、今は微塵も感じられない。

承太郎の言葉に驚き、はにかんで、引き寄せて抱きしめれば、温かなぬくもりが肌に伝わり、息を紡ぐ気配がする。

抱き寄せられて戸惑いながら、腕の中で身体を強張らせ、受け止めて良いのか拒んで良いのか分からずに腕を引き攣らせる彼の動きに、

―――あぁ、生きている。

一層強く抱きこんで、首を傾け花京院の髪に顔を埋めた。

「……お前が、無事で、良かった。」

二度目に抱きしめた身体の、合わせた胸から伝わる鼓動が、承太郎のそれよりも早く刻む音を聞きながら、髪に頬を摺り寄せ囁く。

花京院の鼓動を聞きながら、目を覚ましたばかりの彼を殴りつけたのも、胸倉を掴んで怒鳴り散らしたのも、今、こうして身体が軋むほど強く抱きしめているのも、全て、彼が生きているという証拠を確かめたかったのだと、安堵と共に理解した。

承太郎の腕の中で、花京院が小さくため息を零す。

強張っていた身体から力が抜け、宙に浮いたままの腕を、おずおずと背中へと廻してくる。

「―――うん。」

こんなにも、自分を気遣ってくれる存在があるのだと、回りくどい事など一切省いて、正面からぶつかってくる存在に、今自分は抱かれているのだと、花京院は、ジョセフ達に感じた以上の昂揚が湧き上がり、熱くなる目をきつく瞼を閉じることで耐えて、それでも噴出す、鳥肌の立つような感慨に、小さく震えると、胸に押し付けた額をわずかに摺り寄せ、承太郎の腕の中で、頷いた。

承太郎が抱きしめる腕を少しだけ緩めると、彼はゆっくりと顔を上げて、承太郎を見詰める。

潤んだ目は意志を持ち、胸に沁みる温もりは柔らかく、抱き返す腕は力強く。

花京院は、造られたものではなく、感情の赴くまま、自然と湧き上がる笑みを浮かべた。










2008/6/8